martes, 9 de agosto de 2011

『ちはやふる』第13巻と『3月のライオン』第6巻(感想)

こういうのを現実逃避というのだけれど、日本から来た研究者の(?)友人にマンガを二冊持ってきてもらって、昨晩読んでいた。

両巻の大きなテーマは「欲」だ。でも『ちはやふる』の場合、その欲は千早や逢坂恵夢だけのものではない。確か第12巻あたりの奥付に作者自身が書いていたことなのだけれど、書いているうちに作者の欲が出てきたというのが実際に分かる。物語を描くだけでなく、読者が(百人一首かるたの)クイーンになってほしいと。だからたたかいの描写が、少年漫画にありがちな感じではなく(僕はそんな読んでないけど)、どんどん身体化されて細やかになっていく。当初の、何かが自分にもできる喜び、仲間ができる喜び、一瞬の感覚的なひらめきから、明らかに違う次元に入っていっている。

でも僕が面白いと思うのは、それは単にたたかいの描写ではなくて、一つの「読み」の方法になっていることなのだ。かるたをめぐって、身体の感覚や、技術的な部分(大山札とか囲い手とか)や、背景知識に基づく情感、そして読み手の多様性までも含めて、ただのひらがな14文字のかるたに常に複数の線が走っている。常にその複数の糸が一つの試合の場に集まってきて、そこからもう一度新しい発見という「読み直し」を経て解き放たれていく。

その点で残念だったのは、『3月のライオン』の新人戦の描写だ。棋譜を読む場面が出てくるのだけれど、そこで二階堂を「冒険小説」(というよりは「ただの冒険小説」)にしてしまった感じを僕は受けた。「火の玉」は「ただの冒険小説」ではないと言えばいいだろうか、「冒険小説」は「ただの冒険小説」ではないと言えばいいだろうか、そこには第5巻の島田8段と宗谷名人の対局にあったような、あるいは島田8段と桐山くんの研究にあったような、面白いと思わせる「読みの方法」が欠けていたと私は思う。この漫画の場合、それは「プロであることの方法」と言ってもいい。第6巻では「問題」に「読みの弱さ」というルビを振った言葉が出てきて、それは山崎順慶に対して桐山くんが頭の中で思っていることなのだけれど、これは実はこの巻の将棋の「読み」の描かれ方に対しても、そのまま通用してしまうのではないかと僕は思う。

ちょっと違う言い方をすると、冒険小説つまり少年漫画の世界を生きる「男の子」に、元々その世界を生きていない「男の子」はどう関わっていけるのかというモチーフに僕は結構関心をもっているのだけれど、そしてそこが『3月のライオン』の僕にとっての一つの魅力でもあったのだけれど、そこが失速したような感じがするのだ。二階堂が完全な脇役に回ってしまったというか…。

でもそれは仕方がないことかもしれない。それは『3月のライオン』では「生きる」こと「生き抜く」ことがもつ重さがあって、その中で戦って自分の居場所を見つけていくことに、その中での一つ一つの発見に力が注がれているからだ。僕はこの巻の物語の中での、ひなちゃんの「怒り」の抑制された描写のされ方にハッとするような好感(共感)をもったのだけれど、それでもやはり僕はこの物語に将棋の物語でも、つまりプロ棋士の物語でもあり続けてほしいのだと思う。

この両巻で、『3月のライオン』の桐山くんと『ちはやふる』の千早が試合中にたどり着いた発見は、よく似ていると僕は思う。桐山くんは二階堂の声を想起して、千早は原田先生を想起して、少しずつ複奏的な、守りを組み込んで、かつ正確さを増した読みの方法を獲得していく(千早の場合は前の巻から続いているけど)。でもその背後にある読みの方法と(漫画としての)欲の勢いに僕は注目していて、それがありきたりにならないでほしいと思っているのだ。

あわてて追記:
ちなみに「研究者」に?を付けているのは、人を形容するのに研究者というラベルを用いることに僕が違和感を感じているからであって、現地での人間関係を大事にしたとても面白い研究をする友人です。(汗)

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